プログラミング入門の入門

小学2年生のスウちゃん(仮名)は最近、“プログラミング”づいている。

「ロボットごっこ」

1年生の終わりころ、スウちゃんが「ロボットごっこ」をしかけてきた。たとえば「スウちゃん、ちょっと新聞とってきて」と頼んでも、「動かないよ。ロボットに命令してみて。」ってな感じで、新聞一つとってきてもらうのに「前に5歩、左向け。ドアを開けろ。前に8歩……」と延々と指令しなければならない。ゲラゲラ笑ったあと、ロボットと命令者を交代してまたゲラゲラ。

Scratch

これを楽しむということは“プログラミング”に興味を持つかも、と思い、まずはタブレットで楽しめる Scratch Jr. を紹介したら大喜び。が、操作性が今ひとつ(なかなかブロックが思うように移動・接続できない)なのと、単純すぎるのか、ほどなく飽きてしまった。

そこで PC で Scratch を教えてみる。ちょうどその頃(2016年3月末) NHK で「Why!? プログラミング」という番組の放送があり、ますます興味が湧いてきて、かなり真剣に取り組んでいる。

ところが今度は Scratch の自由度の高さが仇となった。キャラクター(コスチューム)を自由に描き変えることができるのだが、そこでお絵かきに夢中になり肝心のプログラムのほうはそっちのけ。まあそれはそれでいいのだけれど。

さらには、なんだか複雑なゲームを構想してしまい、とてもじゃないがすぐに結果が出ないので熱気が冷めてしまった。その前に習得しなければならないものがとてもたくさんある。

ハードウェア IchigoJam

一方で、機会があって「IchigoJam 体験」に参加。スウちゃんは初めてのハンダ付けに挑んだ。案外うまくできるものだ。CPUと数点のパーツだが自分で組み立てて、それでテレビに文字が出るというのは感動するようだ。手で触れることのできる形あるものというも実に大事なことなのだなとあらためて思う。

しかし、いろいろとハードルが高い。コンポジット出力なのでPC用モニターにつなげず、下手をするとテレビにもその端子がなかったりする。家のは大丈夫だったが、いざ始めようとするとテレビの真ん前に本体とキーボードをいちいちセットしなければならないのがちょっと面倒だ。それにそのキーボードの端子も PS/2 だ。これは家にもいくつかあることはあったがどれも US 配列で、日本語JIS配列が前提の IchigoJam BASIC だと、多用するダブルクオーテーションや丸括弧がキートップの印字と異なっていて、スウちゃんはひどく苦労している。しかも黒い画面に表示できるのは白い文字のみ。おっさんホイホイであることは間違いないが、現代の子どもにとって快適な環境とは言えなさそうだ。これを楽しめるようになるには、もうしばらく別のところでの修行が必要だ。

Code.org

Scratch は自由度が高くて的が絞れず、BASIC は何かと障壁が高い上に味気なく、どうしたものかと思っていたところに Code.org にたどり着いた。

  • (+) ステージが細かく設定してある。ゴールが設定されているため気が散らない。
  • (+) ゲーム感覚でクリアしていくことで、飽きることなく続けることができる。
  • (-) 日本語がおかしなところが多い。子ども向けだと翻訳も変えなければならないのだと思わされた。

ゲームっぽいところは良し悪しで、ただそのステージをクリアすることのみが目的となってしまうのがちょっとよくないところ。

スウちゃんは「コース2」から始め、現在はそれを終了しようとしている。「コース3」は日本語訳がされておらず英語のままだ。課題のところはちょっとした文章になっているから自分で理解するのは当分のあいだは無理で隣から教えてやるしかなさそうだが、せめてブロックの単語は英語で覚えてもらうことにしようかなと思っているところ。

ともかく小学2年生である現在のスウちゃんには、これがいちばん受け容れられた。

「ルビィのぼうけん」

そうこうしているあいだに、絵本「ルビィのぼうけん」がちょうど出版された(2016年5月)のでさっそく購入。スウちゃんは主人公が自分と似ているなあととても親近感を覚えて、かなり気に入ったようだ。ワークも、もともと手を動かすのが好きなので特に着せ替えなどは大いに楽しんでいる。

ただ、前に Scratch や Code.org などのビジュアルプログラミング言語を体験してしまっているためか、頭の中だけとか紙と鉛筆だけだけだとなんというか、まどろっこしいような感じらしい。もっと早い時期か、あるいは逆に高学年か中学生くらいになって概念だけを抽象化して捉えられるようになってからのほうが楽しめるのかもしれない。

まとめ

親としてもしっかり事前に構えていたわけではなかったので、いきあたりばったり的に「そういえばこれはどうだろう」と思いついたものに触れさせてみたという感じで、ここまでスウちゃんが実際に体験した順に書いてきた。

いまになって振り返ってみて、ここまでに挙げたものを「小学生が“プログラミング”入門するのに適した順番」に並べ替えてみると、

  1. 「ルビィのぼうけん」
  2. Code.org
  3. Scratch
  4. ハードウェア (IchigoJam や Arduino?)

になるだろうか。最後の項目に前後してテキスト型プログラミング言語(Python だろうか)が入るかなあ。

「子どものプログラミング」というのは流行のようで、習い事としても人気になりつつあるらしい。ちょっと調べてみただけでもいろいろな教材があって、正直言って驚いた。それでもまだ未成熟という感じもして、もう数年経てばきっと多くの事例がフィードバックされて、より洗練された言語、教材、教授法が出てくるのだろうと思った。

「プログラミング学ぶ」ではなく「プログラミング学ぶ」

さて結局のところ、小学校低学年というこの時期だと“プログラミング”といっても、言語はどれかとか具体的なコーディングとかではなく、プログラミングに通じる思考法みたいなもの、つまり

  • 論理的に考える
  • 手順をこまかく分割
  • 類型化してまとめる
  • 条件分岐を考える

というようなことを習得する、ということに尽きる。そしてそれは日頃の遊びやお手伝い(たとえば工作、お料理の手伝い……)にすぐに活かされるものだ。

そう考えると将来プログラムを組めるようになる、とかとはまったく無関係に単に「日常生活にとって大事なことを学ぶ」という、何と言うことはない普段の学校や家庭での学びと何も変わらないのだ。

だから、小学生低学年程度の子どもが“プログラミング”に接するというのは、「プログラミング学ぶ」ではなく「プログラミング学ぶ」ということ、“プログラミング”そのものが目的ではなく、ひとつの手段・道具に過ぎないのだと思う。

繰り下がりのあるひき算で、「減減法は筆算でつまづく」か

スウちゃん(仮名)は2年生になり、小学校でも筆算を習うようになった。早い時期から位取りの概念を掴んでいてもらいたく、家では1桁どうしのころから筆算に慣らしていたので、特に苦労はないようだ。

学校の宿題のドリルをやるのを脇で観察していたらスウちゃんが「自分のやり方でやってもいい?」と聞く。何のことかと思って「いいよ」と返事をして見ていると……。

32-19たとえば「32-19」の場合、スウちゃんは次のようにやる。

  • 2から9はひけない。そこで9から2をひいて、7
  • その7を10からひくと「3」。これを一の位のところに書く
  • 十の位の計算はさきほど使ったぶんの1を減らして、「1」

父である私は多数派(たぶん)のやり方、「10から9をひいて1、それを2とたして3」とやる。調べてみると自分のやり方には「減加法」という呼び名があるようだ。それに対して「減減法」というのがあって、「9のうちひけるだけの2をひいて、ひききれなかった7を10からひいて3」とやるらしい。スウちゃんのやり方は「減減法」の亜種という感じだ。

調べていて、「減減法は筆算でつまづく」というのを何回か見かけた。そうだろうか。

スウちゃんは、筆算の問題をたくさん見ているうちにこの「法則」を発見(という言葉は使わなかったけれど)したとのこと。だから筆算のときだけこのやり方になる。というか彼女の中ではこのやり方自体が「筆算」という解法の一部らしい。それなりに理にかなっており筆算の邪魔になってはいないように見える。将来何か困ることがあるのだろうか。

スウちゃんのやり方は、この論文では「誤りのパターン」と言われている

スウちゃんに繰り下がりの意味をあらめて聞いてみると、学校でも習ったとおりにきちんと説明できる。それに、1年生のときの「20未満ひく1桁のひき算(繰り下がり)」は「ひき算カード」で何か月も宿題として暗唱させられていたから、それはすらすらと口から出てくる。

いずれにしろ、機械的に計算する(筆算とはそもそもそういうものだと思うが)場合はともかく、「ひき算」や「繰り下がり」の意味を見失わないようにしておくことが肝心なのだろう。

薪ストーブのガラスを交換

薪ストーブのある暮らしについて書こうと思っているうちに時間が経ち、その最初がいきなり大きなトラブルのことになってしまいました。

今年(2015年)の初冬は暖かで、シーズン最初の火入れは例年より20日ほども遅く、11月も終わる頃。その2日め、「ピシッ!」という音とともに、ストーブ扉のガラスに、向かって左上から中央ほどまでヒビが入ってしまいました。火はガンガン燃えているし(だからこそヒビが入ったのですが)、どうしようと思っている間にまた「ピシッ!」と音がしてヒビは右下にまで達し、ガラスは2つに割れてしまいました。

この薪ストーブはもう20年ほど前のアメリカから個人輸入のもので、有名メーカーのものでもなく(いま調べてみるとこのメーカーの主力商品は焼却炉)、いまや廃番になっているようで部品として調達することはほぼ無理です。そこでまずはネットで「薪ストーブ 耐熱ガラス 交換」で検索しました。ほぼトップに出てくるブログ記事「薪ストーブのガラス交換」を読み、そこで紹介されているネット通販(これも先ほどの検索でほぼトップに出てきます)で入手できることがわかりました。そのサイトで簡単に見積りをとることができます。電気硝子建材の「ファイアライト」(5mm厚)が耐熱800℃と薪ストーブ向きで、うちのガラスは 400mm×250mm ほどの大きさなので、1万円強になりそうです。

扉をあけて内側から見たところ
ただ、形状が簡単な長方形ではなく、上辺が丸くカーブしています。加工料もいくらか上乗せになりそうですし、何しろこれを正確に伝えなければなりません。せいぜい 1mm ほどの誤差しか許されず、神経を使いそうです。

そこで、直接会って話せるガラス屋さんを探してみることにしました。電話帳(タウンページ)を繰ってみます(紙の電話帳を使うのはかなり久しぶりです)。「ガラス店」の欄は、ガラスが割れたらすぐに電話を受けたいという業者が、町名をやたらと羅列して何行にもわたって場所をとっていて、ちょうど「水道工事」や「鍵」の欄と似たようなことになっています。こういうところは今回のような特殊な案件を持ち込んでもまったく相手にしてくれないかふっかけられるかのどちらかしかなさそうな気がして、見送りました。ちょっと町工場ふうの業者が割と近くだったので、そこに電話してみました。先に結果を書きますが、これが大当たりでした。

私「そちらは、割れたガラスの修理など個人相手もやってらっしゃいますか? 実は薪ストーブの耐熱ガラスが割れてしまって、それを直したいんですが。」

ガラス店「あー、そういうのはストーブのメーカーに問い合わせられたほうがいいと思いますよ。」

私「実は個人輸入もので、メーカーに連絡をとるのは絶望的なんです。しかも20年ほど前のもので廃番になってるらしくって。」

ガラス店「そりゃあしかたないですね。」

私「それで、耐熱800℃くらいのガラスを切ってもらえたらと思ってお電話しました。」

ガラス店「えっ、800℃! それは無理なんじゃないかなあ。200–300℃のなら扱ったことあるけど。」

私「そうですか。ネットでいろいろ調べてみたら、ネット通販で買えるところはありそうなんですよね。だけど形が長方形じゃなくて、ひとつの辺がまーるくなってて、それを正確に注文するのがややこしそうなんで、近所で直接話せるところがないかなと思ってお電話したんですよ。」

ガラス店「そうなんですか。そのガラスの商品名わかります?」

私「電気硝子建材の『ファイアライト』ってやつみたいです。」

ガラス店「あ、それ扱ってます。そんな高熱でも大丈夫なのか。在庫あるんじゃないかな。」

私「そうですか! 400mm×250mm くらいの大きさです。」

ガラス店「ちょっと在庫調べときますよ。ちなみにネットでいくらくらいでした?」

私「その大きさだと1万円ちょっとになりそうでした。」

ガラス店「うーん。それくらいでできますよ。」

私「ありがとうございます!!」

ガラスにヒビが入ってすぐに電話したのが金曜日の夕方でした。翌土曜日は営業していてしかも外の仕事にも出かけないとのこと。その土曜日に再度電話で確認すると幸運なことに在庫があり、すぐに車で割れたガラスが入ったままのストーブ扉ごと持っていきました。

さっそく作業を始めるガラス屋さん。きれいに2つに割れているだけなので、それをきちんと合わせながら新しいガラスの上に重ねて油性ペンでさーっと線を引き型を取ります。詳しい説明も何も必要ありません。これが対面のいいところ。

雑談しながら作業は進みます。

ガラス店「へえ、扉こんなに重いんですね。薪ストーブはこれまでやったことないもんだから。昨日あれから問屋に聞いてみたりしましたよ。」

私「割れた原因に思い当たることがあって。夏の間に、いったんガラスを外してその回りのガスケット(ガラスロープ)を取り替えたんですよね。そのあと取り付ける時に、この金具のネジをしっかり締めてしまったんですよ。締め付けがきつ過ぎたのが原因だと思います。でもまあたぶん20年ほど一度も交換していないんで、劣化もしてたでしょうけど。」(締め付けすぎが破損原因になるというのが今回検索してみてたくさん出てきました。しょっちゅう扱っているストーブ屋さんならともかく数年に一度(あるいはまったく初めて)しかやらない者だとうっかりしてしまいます。事前にちゃんと調べておくべきでした)

ガラス店「なるほど。確かにちょうどその金具のところから割れてますもんね。」

私「耐熱ガラスを納めることもあるんですね?」

ガラス店「厨房機器や工場の機械の覗き窓なんかですね。それぞれそんな大きくないんだけど、その度にファイアライトを小さいので仕入れていると高くついて。そんな注文が何度かあったんで大きいので仕入れてたんです。それでその端材みたいなのが残ってたんですよ。」

私「なんてラッキーなんだろう。」

ガラス店「はい、できました。はめてみましょう。あれ、ぴったり同じ大きさなのに入らないな。」 (ぴったり入らなかったのは私がつけすぎたボンドがあちこちにはみ出して硬化していたからです。ガラス回りにはボンドは要らないというのも今回検索して知りました。まったく事前に調べておくべきでした。そのはみ出た部分をマイナスドライバーでこそぎ落として、ガラスは無事にはまりました)

ガラス店「今度はネジを締め過ぎないようにね。」

私「はい。」

ガラス店「じゃ、1万円とは言いませんから、8000円で。」

私「ありがとうございます!!」

という具合。面倒な説明も要らず、トラブル発生から24時間以内(実質30分足らず)、8000円(税込)で、ストーブ扉の割れたガラスは完全復旧しました。もし有名メーカーの純正品だったら、たとえばブログ記事のこんなところこんなところ、ストーブ店のこんなところなどを見ると、数万円もかかるところでした。親切な町のガラス屋さんに出会えてほんとうにラッキーでした。

昨年のクリスマスプレゼント「インラインスケート」

また今年もこの時期になったわけですが、昨年のプレゼントを1年間経ってから振り返ってみるシリーズです。

当時6歳のスウちゃん(仮名)の元に届けられたのはインラインスケートでした。秋口に一度アイススケートに連れて行ったらずいぶん楽しかったらしく、何度もせがまれてそのうち2,3回はまた連れて行ったのでした。いっそのことアイスでなくてもいいのでは、とサンタクロース代理人である私は考えました。

当時、まずおもちゃ屋を見てみたのですが、確かに値段の安いおもちゃ風のものはありました。でもちょっとちゃちすぎないか、と思わされる作りでした。いっぽうでネットで調べてみると本格的なものは値段も本格的。そこでそのあいだくらいという感じの「RIP SLIDEジュニアアジャスタブルインラインスケート5点セット イエロー L」にしてみました。これを書いている2015年11月現在、同じものは品切れとなっているようです。

サイズはやや大きかったのですが、靴下を履いてしっかり締めればグラつきはなく大丈夫のようです。滑りはそこそこよかったです。いちばん近くの練習場所は舗装があまり上等ではなく、どちらかというとそちらのほうが問題ですね。いい場所で滑ればかなりいいのだと思います。

アイススケートで少し慣らしていたこともあって、よたよたと歩いては転び立ち上がるというのを数回繰り返した後は、徐々に滑る(というよりは「歩く」か「走る」程度)ことができるようになりました。子どもはすごい。

残念なのは、まわりの友だちも持っていないと楽しく一緒に遊べない、という点ですね。まあちょっと早すぎるかなという年齢でもあるので、同い年の友だちが持っていないのはしかたありません。サイズはアジャスタブルでもう数年は大丈夫なので、そのあいだに仲間が増えるといいな。

『多数決を疑う—社会的選択理論とは何か』を読んだ

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)を読みました。議員選挙などのたびに、多数決よりましな方法があるんじゃなかろうかと漠然と思っていたのですが、それについて追究する学問分野が「社会的選択理論」と呼ばれていることすら知らなかったので、大いに蒙を啓かれることとなりました。

本書の内容は既に公にされている書評(毎日新聞読売新聞など)などにお任せします。検索すればほかにもたくさん見つかります。一方で、きっと本書そのものを読まないままにタイトルだけから「民主主義を否定するのかよ」といった短絡的な批判(?)も見つかります。それほど「民主主義イコール多数決」と思い込んでいる者が多いのでしょう。もちろんそうではありません。意見集約の「方法」についての話なのです。

多数決のもとで有権者は、自分の判断のうちごく一部に過ぎない「どの候補者を一番に支持するか」しか表明できない。(略)だから勝つのは「一番」を最も多く集めた候補者である。(略)

多数決の選挙で勝つためには、どの有権者をも取りこぼさないよう細かく配慮するのは不利というわけだ。とにかく一定数の有権者に一番に支持してもらい、(略)

だがこれは政治家や有権者が悪いのではなく、多数決が悪いのではないだろうか。しかし多数決を採用しているのは人間である。多数決を自明視する固定観念が強い。(本書「はじめに」)

本来であれば社会全体をよくするという政策が出てきてそれが支持されそうなところ、現行の「方法」が多数決であることによって、候補者が勝ちにいくために政策・選挙戦術が歪められ、有権者の行動もまたそれに依存する……。何か本末転倒と思わざるを得ません。

多数決ほど、その機能を疑われないまま社会で使われ、しかも結果が重大な影響を及ぼす仕組みは、他にはなかなかない。とりわ議員や首長や議員を選出する選挙で多数決を使うのは、乱暴というより無謀ではなかろうか。(本書「おわりに」)

多数決の最大の(たぶん唯一の)利点は、「単純でわかりやすい」ということだろうと思います。本書で紹介されるボルダルールやコンドルセ式は集計(開票作業)がどうしても煩雑になります。しかしそれは人間の手作業による場合であって、もし電子投票が実施されるようになればまったく問題はありません。電子投票の問題はたぶん信頼性や投票の秘密の確保とかにあるのでしょうが、いずれその方向にいくでしょう。200年ほども前から提案されている方法に、ようやく技術が追いついてきたと言えます。それに合わせて集約方法も“進化”してもいいのではないでしょうか。

ともかく、多数決よりましな方法が存在します。議員選挙のような簡単には動かしにくい制度よりもっと身近なところ—町内会とかサークルとか学校の生徒会とか—からそういったものが普及していってもらいたいものです。

ボルダルール

さて本書では多数決の代替案がいくつか検討された後、その中でも「ボルダルール」が推されています。その理由として

  1. ペア敗者規準とペア勝者弱規準を満たす
  2. さらに棄権防止性を満たす

が挙げられています。さらに「コンドルセ・ヤングの最尤法は統計学的に定義されるゆえ有権者には理解が難しく、広く受け入れられるとは想像しがたい。であればボルダルールのほうが世に導入しやすいだろう。」と述べています。

しかし、これらについて私は素直に首肯できませんでした。

まず(2)についてです。ここで「棄権防止性」とは、有権者があえて棄権することで結果を自分に有利に変えることができない、という意味で説明され、コンドルセ・ヤングの最尤法ではこれを満たさないとのことです。

ボルダルールでは、候補のすべてに順位を付けて投票しなければなりません。ではたとえば最近の都知事選挙を考えてみます。これだけ候補が多いと、大部分の有権者は、もっとも好ましい候補からせいぜい3人ほどと、この人には絶対なってほしくないという候補の2,3人ほどが頭に浮かぶ程度ではないでしょうか。何がなんでもすべての候補を一列に並べなければならない、とすると有権者への負担はとても大きくなり、そんなことならいっそ棄権してしまおうかという気持ちにもなってしまいそうです。棄権で結果を自分の有利にできないから棄権する動機がないという意味の「棄権防止性」はあるのかもしれませんが、「めんどくささ」からの棄権を多く誘発しそうです。もしすべての候補にではなくて「いくつかだけに順位をつければよい」というルールにすると、それはボルダではない「スコアリングルール」になってしまい、(1)を満たさなくなってしまいます。この「めんどくささ」、つまり有権者の高負担というボルダルールの不利な点をどのように克服できるのか、そこまで本書で説明されていればよかったのにと思いました。

シュルツ方式

本書には出てきませんがコンドルセの一種として「シュルツ方式」というものがあります[1]

Wikipedia のページをざっと読んでみたところ、シュルツ方式の投票は、ボルダルールのように候補に順位を付けますが、

  • 複数の候補者に同じ番号を付けてもよい
  • 連続しない番号をつけてもよい。番号の絶対値は重要ではなく、順序のみに着目する
  • いくつかの候補に順位を付けなくてもよい。その場合、順位付けしていない候補を最下位(順位付けしていない候補どうしは同列)とみなす

というものです。コンドルセ式のためペア勝者規準をも満たすようですし、また全部の候補を順位付けせずに部分だけでもよい、とありますから、上に挙げた私のボルダルールに対する疑念も克服されているようです。簡単な比較の日本語記事が『「多数決」以上に民意を反映できる選挙方法とはどのようなものなのか?』にありました(本書の出版より前の記事です)。

Debian Project採決にこの方式を採用しているということを、実は以前から知っていました。しかしこれが多数決などとどのような関係にあるか、考えたことはなかったのです。今回、『多数決を疑う』を読み、あらためて見てみました。英語ですが The Debian Voting System は、Debian での方法に限らず一般的なコンドルセやシュルツの説明としてわかりやすいです。

そこにあるように、Debian 方式は

  • 選択肢に「更に議論する」を追加する
  • デフォルトはこの「更に議論する」とする

という拡張がなされています。一般の投票なら「他に選択肢がない」や「どちらともいえない」などを読み替えることができるでしょう。つまりデフォルト選択肢より上の順位にすれば「好ましい」、下の順位は「好ましくない。嫌だ」という意思表示になります。これはたいへん合理的なルールだと思えます。

この拡張の優れた点は、ただの賛否を問う採決でも(選択肢が「賛成」「反対」の2つしかなければボルダルールも何もただの多数決になってしまう)、選択肢が「賛成」「反対」「更に議論する」の3つになり、コンドルセ式などを適用できることです。もっともこれを「迅速に決定できない」という欠点だとみなすこともできますが、私は、拙速よりははるかにましだと考えます。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)……と、実は本書を読んだのは数か月前なのですが、何しろ専門でも何でもないので、調べたり考えたりしながらこの辺まで書くのにうんと手間取ってしまいました。このままではいつまでたっても書き上がらないので、ひどく中途半端ですがもうここでこの記事を公開してしまうことにします。

ついでに、私の抱いているもうひとつの疑問も書いておきます。

私の住む市の今年春の市議会議員選挙では、立候補者数は定数をわずかに超えるだけでした。つまり30人ほどが当選し、ほんの3,4人しか落選しません。最適の候補をたったひとつ選ぶ場合にはコンドルセ式やボルダルールが使えそうですが、このような場合にも適用できるのでしょうか。本書からだけではよくわかりませんでした。たとえば「投票方式はこれで決まり?」で言及されている方法などは有用そうなのですが、それと他の方式との比較などが自力ではよくわからない……。

様々なケースにも適用できるベストな方法はどうやらなさそうだ、という感じはうすうすしているのですが、それでも本書で言うように「コンドルセ式よりもボルダルールが優れている」とは思えませんでした。さらにもっと別の方式も同じ土俵に上げて、上述した疑問にも私のような素人にもわかりやすく答えてくれる、続編に相当するものが現れないかなと思っているところです。

  1. WikiPediaの解説はとても参考になりますが日本語版の「シュルツ方式」は翻訳が変なところも多い(2015年9月現在。そう思っているなら直せよと言われそうですが、時間があれば少しづつそうしていきたいと思います。しかし私のような素人よりもっと専門知識のある人たちにやってほしい……)ので、それを参照しながら英語版 Schulze method を見たほうがよさそうです。

先取りなのか回り道なのか—さんすう編—

長いあいだこのブログも更新していなかったが、そうするうちにスウちゃん(仮名)は1年生になった。

8か月ほど前に「ドミノとさんすう」で、その頃の“さんすうのおべんきょう”について書いてみたのだが、現在の状況についてメモしておこう。なお家での独自の“べんきょう”についてであって、学校でのさんすうや宿題は、これとはまた別にあるのは言うまでもない。

前の記事の『ふたたび「さんすう」』の節にも書いたとおり、筆算(縦書き)をかなり早めに(ほとんど意味がないと思える1桁どうしの計算のころから)教えてきた。また、ブロックを使っていたものが2桁どうしになるとほぼ無理となり、簡単な図を描くように変わってきた。

現在(小学校1年生の6月末)は、2桁どうし[1]のたし算・ひき算の筆算を、脇に図を書きながらやっている。とにかくたし算・ひき算だ。かけ算は1桁どうしもやっていなければ、図形もやっていない。

こちらが問題を考えて作ってやるのが面倒なので、半自動で作成するようにした。つまり、LaTeX の emath マクロを利用して、その中の

を使って、A4横置きの紙に20問(たし算かひき算かはランダム)を出力するようにした。スウちゃんは気が向いたら(それは退屈でほかにやることがないときか)これをプリントして、やっている。

繰り上がりや繰り下がりのときの「筆算でのテクニック」—上に1を書くだの—は教えていない[2]。そのため、脇に図を描いては「10の束が何本、ばらが何個」というふうにやっている。わりと間違えないし、そこそこ速くできるものだ。

「テクニック」はそのうち学校で教わるだろう。そのときにあっと思ってくれればいい。テクニックばかり先に覚えてしまうとその元になっている考え方は忘れてしまうだろう。そういえばいま学校では1桁のたし算(結果が10まで)をやっている。宿題で「けいさんカード3回」などが出る。単語カードのようなものの表側に「2+5」「3+1」「4+4」と書かれていて(たとえばこんなようなもの)、それをすばやくめくりながら「なな!」「よん!」「はち!」と声を出すのだ。たし算のしくみはきっちり教えられたうえで、いまはこのカードなのだと思いたい。

筆算の「テクニック」は学校で教わるころまで措いておくことにして(そのうち自分で“発見”するかもしれないしね)、今日もまた棒と丸の図を描いているのであった。

  1. 計算の結果が3桁になることもある。
  2. ただし繰り上がり(「10束が1本できるよね」)や繰り下がり(15-7など)そのものの考え方については教え、何度もブロックで手を動かしてきた。

6÷2(1+2)問題あらため2a÷2a=1問題 — はてなブックマークのコメントに反応してみる

前の記事『「6÷2(1+2)」問題について教育委員会に問い合わせてみた』は、予想以上に多くの人の目に触れたようです。自分のブログでこれほど読まれた記事は過去になく、これまで「はてなブックマーク」というものを気にしたことはありませんでした。今回はそこから導かれてくる人もけっこうあるようなので見てみましたら、そこにいくつかのコメントがありました。言いっぱなしで、それについての反応を期待されていないものとは思いますが、あえて応えてみます。

「6÷2(1+2)」というタイトルについて

最近よく見かけていた「6÷2(1+2)」をタイトルに持って来ましたが、私はその本質を、それが数字だけの式だからというより、『「記号の省略されたかけ算」と「記号の明記されたわり算」の優先順位』の問題だと思っていました。ですから「2a÷2a=1 問題」とでも言ったほうが誤解が少なかったかもしれません。念のため付け加えますが、「÷」を「/」と書いて「2a/2a」でも同じ問題があると思っています。つまり私にとっての関心は、数字か文字かということではなく、「÷」という記号でもない、ということです。

「中学数学もろくに……」について

むしろ中学数学しか知らなければ「2a÷2a=1」に疑問を感じないのかもしれません。そこから先に、高校や大学で数学や物理に触れる機会が増えるほど、この表記を疑わしく感じるのでないかと思います。

私自身がいつからそう思うようになったか、というはじめのところは覚えていませんが、大学のときにその混乱に遭遇したことは覚えています。

1/xy のような簡素なものなら 1/(xy) の意味かと思いやすいかもしれません(それでも疑わしく考えますが)。それよりもやや複雑な k/2(x2+y2+z2) のような形を教科書だか論文だかで目にしました。紙幅を節約するためか、TeXでいう「ディスプレイ形式」ではなく、1行に収めるように表記されている場合、しかも k と 2 の間の線が水平ではなく斜めになっている場合に、この不安が呼び起こされます。そしてこの (x2+y2+z2) は分子の側だっけ、分母の側だっけ、と数ページ前にさかのぼってこの式の導出されるところを確認しなければならないことになります。ゼミのような場面で読み合わせているときにもそれは起こったので、私だけではなくそこに居合わせた学生のみならず教官も含めて、こんなあいまいな書き方はよくないよね、というのがその場での共通認識でした。

中学より後の数学に触れたことのある人で、「2a/2a は 1 か a2 か」と問われて「1 に決まってる」という人はまずいないだろうと思います(私自身が調査をしていませんので断言はしませんが)。はてなブックマークのコメントで「明白だ、中学数学もろくに……、算数できない人……」という人(星を付けた人も含めて)が、いまなぜこれほどいるのか不思議でしかたありません。

「明白」について

私は、

  1. かけ算とわり算の優先順位は同列である
  2. かけ算の記号(×)は省略できる。ab は a×b と同じ
  3. 2a÷2a=1 である

の3つは同時には成り立ち得ない、と理解しています。(1)(2)を前提とするならば、2a÷2a は a2 にしかなりません。

(3)が成り立つと主張する人は、(1)や(2)を否定、つまり、

1′. かけ算の記号を書いたときと省略したときでは意味が違い、省略されたかけ算は明記されたものより優先順位が高い

というルールをいつのまにか導入しています。そうでなければ、どうにも 2a÷2a は 1 になりません。

この(1′)は、学習指導要領や教科書、指導書などに明記されているでしょうか? おそらくないでしょう。(3) を持ち込みながら、一方では (1)(2)を否定しないふりをしている、という姑息な状態になっています。

さてついでに、

というコメントですが、どうもこの人たちの中では、2a は単項式で 2×a は多項式のようです。意味が通じません。

何を測る問題なのか

はてなブックマークのコメントで有益なものはありませんでしたが、そのページからのリンクで発見した『Raccで「6÷2(1+2)」』の後半には、たいへん示唆に富む情報がありました。

https://twitter.com/metameta007/status/576296729949044736から始まる一連のツイートについて,情報源を調べてみました.

自分では探そうともしていなかったので、ありがたい情報です。このような資料を示されると、自分の考えをいくらか改めなくてはならないかもしれません。

しかし、現在においても

  • (1′)が提唱されていたが、数学の世界にひろく浸透していない
  • そのため大抵の人は、紛らわしさを回避するため括弧を使うなど、このルールによる表記法を避けている
  • そのため、ますます(1′)は浸透しない

という状況だと推測します。

「提唱されてはいるが評価が定まっていない」「信用できない」「誤解を招くため書くことがためらわれる」ようなものが入試問題として適切かという懸念は、それでも残ります。上に引用したブログの方は学習指導要領(解説)も調べているようですが、(1′)はあからさまには記述されていないようです。それはなぜかということも気になります。

この設問(簡単に 2a÷2a と書きます)は、何を計測しようとしていることになるのでしょうか。『「単項式を単項式で割る」を理解しているか』を見るつもりなら、2a÷(2a) のように括弧を付けてもその目的を達することができます。曖昧さが排除されているので、今回取り上げたような問題は起こりません。

やはり、入試問題としては不適切と言わざるを得ません。

【2019年2月4日追記】

この記事へのコメントは非常に長大になり、今後この記事を目にする人たちにとっては苦痛とも言えるほどになってしまいました。そのため、この記事へのコメントの受付は2019年2月4日をもって停止します。自由に意見を述べることを封殺する意図はありません。後にここを目にする人たちに対しての配慮です。ご理解ください。

この話題の続編とも言える記事が『「6÷2(1+2)」問題は100年前にも議論されていた』にあります。そちらにコメントしようとする場合は、ここに既にあるコメントと内容的に重複しないよう、慎重に考えた上でお願いします。