y の増加量は x の増加量の何倍

まとめ

記事がとても長くなったので、最初にまとめを示しておく。

中学校の数学で、

  • 1次関数の「変化の割合」の学習の箇所に、「y の増加量は x の増加量の何倍」なる表現は必要か否か

利点よりも誤解を生む弊害のほうが大きいので不要、むしろないほうが望ましいというのが私の考え。

  • 「単位を外に付ければ x や y は「値」のみなので無次元」的な概念の是非

1点めを掘り下げているうちに明らかになった、中学数学全体に及ぶような大きな問題。そのためここで述べてもどうにもならないような気もするが、生徒たちは先(高校や大学、実社会)にも横(他教科、特に理科)にも進んでいかなければならないことを思えば、どちらにもつながらないこのような局所的な概念はないほうがいいというのが私の考え。

入試問題

きっかけは、中学3年生向けのワークブック(学校で全員が買わされるやつ)をたまたま見たことだった(私がそれを見てこの記事を書いているのは2023年11月)。そこに掲載されていた問題の出典は、京都府の高校入試問題(平成31年度 京都府公立高等学校入学者選抜 中期選抜学力検査 検査3「数学」の大問4)であることがわかった。

【4】 自転車に乗っている人がブレーキをかけるとき、ブレーキがきき始めてから自転車が止まるまでに走った距離を制動距離といい、この制動距離は速さの2乗に比例することが知られている。太郎さんの乗った自転車が秒速 2 m で走るときの制動距離は 0.5 m であった。
(1) 太郎さんの乗った自転車が秒速 x m で走るときの制動距離を y m とする。y を x の式で表せ。また、x が5から7まで変化するとき、y の増加量は x の増加量の何倍か求めよ。

解答欄は2つの枠があり、1つめには「y =    」が印刷されていてその後の空欄を埋めるようになっており、2つめには「    倍」が印刷されていてその前の空欄を埋めるようになっている。

何がおかしいか

私がおかしいと感じるのは問題文後半の「◯倍」を答えさせる部分だ。

y の増加量は長さの次元を持つ。x の増加量は速さの次元を持つ。問題文では「x が5から7まで変化するとき」と、あたかも無次元量のような表記になっているが、問題文前半から x、y がそれぞれ速さ、長さの次元であることは明らかである。そもそも次元の異なる2つの物理量の倍率を問うこと自体がナンセンスである。たとえるならば「5 kg は 1 m の何倍か」という表現と同等であり、意味をなしていない。

出題者は「x の増加量に対する y の増加量はいくらか」と問うべきところを、単なる日本語の間違いで「y の増加量は x の増加量の何倍か」と書いてしまったのだろうか。それを指摘することは揚げ足取りに過ぎないのだろうか。

出題者の意図

その旨を問い合わせたところ、京都府教育庁指導部高校教育課より回答があった。

本問については、まず自転車の速さをx(m/秒)、制動距離をy(m)として、xとyの関係を式で表現させています。そのxとyの関係式について、xの増加量とyの増加量を比較させる問題です。

この、xの増加量とyの増加量を比べることについて、単位の異なる2つの物理量を比較させているというご指摘ですが、x、yのそれぞれの増加量を比べているものであって、単位の異なる2つの物理量を比べているものではありません。

(京都府教育庁指導部高校教育課)

回答の内容は、私には意味不明としか言いようがない。

「物理量」「次元」という言葉がわかりにくいのであれば、「ある単位で表される値」とでも読み換えてもらっていい。それでも私の指摘するところは変わらない。

x が [m/s] で表される値ならば、「x の増加量」もまた [m/s] で表される値である。同様に、「y の増加量」も [m] で表される値である。単位の異なる2つの値を「◯倍」と表現することは、日本語ではあり得ない。

もし問題文が「x の増加量に対する y の増加量はいくらか。」または「変化の割合はいくらか。」であれば、変化の割合は有次元でもかまわないので「3/2」と解答できるが、問いが「何倍か」で解答用紙の欄に「倍」と印刷されて限定されているのであれば、答えるべき数値は無次元量でなければならず、この問題の場合は解答不能である。

問題文では「x が5から7まで」と、この箇所にはあえて単位を書かずあたかも無次元であるかのような表現になっている。しかし、問題の前段で求める係数 1/8 は、x や y がその次元(単位)だからこそその値になる。x の単位を [m/s] としたときのものであって、単位が異なれば値は変わる。試しに速さを [km/h] にして係数を求め直してみれば明らかだ。x や y の値は単位と切り離されておらず、式に現れる係数もまた同様である。したがって正答例 3/2 は、明らかに [m] と [m/s] の比であって無次元ではなく、「倍」と言うことができない。

この回答を見ると出題者は単に言葉「倍」の使い方を間違えたのではなく、実は確信的に、「xの増加量」を本当に無次元量だと思いこんで、「倍」を使ったのかもしれない。

私立高校入試問題

ここで補足的に、別の高校の対応について記しておく。

京都府に問い合わせて回答を待つ間にこちらでいろいろ調べているうちに、本件とほぼ同じ問題が2021年度にある私立高校入試で出題されていたことを発見した。(ここまでそっくりの問題を出題することの是非は、私は第三者であり当事者間の許諾などを関知していないため、ここでは触れない。)

その高校にも同様の問い合わせをしたところ数日後に回答があり、曰く、「出題ミス」と判断し過去問題を掲載していた箇所にその旨を掲示する、とのことであった。

教科書の記述

さて、京都府教育庁指導部高校教育課からの回答には続きがあって、

実際に、当時の教科書においても、次のような記載があります(東京書籍『新編新しい数学2』P58)。

「1次関数の値の変化についてで「電気ポットでお湯を沸かすとき、熱し始めてからx分後の水の温度をy℃とすると、y=5x+20となることがわかりました。
  xの値が4から6まで増加したとき
  xの増加量は 6−4=2  yの増加量は (5×6+20)−(5×4+20)=10
 yの増加量はxの増加量の5倍になっている。
すなわち (yの増加量)/(xの増加量)=5
xの増加量に対するyの増加量の割合を変化の割合という。」

以上のことから、解答不能とは考えておらず、出題ミスとも考えておりません。

(京都府教育庁指導部高校教育課)
当時の教科書(平成27年検定済「新編 新しい数学2」東京書籍)

と書かれていた。

入試問題では明らかに「速さ毎秒 x m、距離 y m」と記しているので「y の増加量は x の増加量の何倍」という表現は誤りである。それに対して教科書では、ページの上段の「Q」と下段の「例1」のつながりをどの程度と見るかで判断は分かれるだろう。「例1」と区切っていることから、ここは具体的事象から切り離して数学的記述のみと見ることもできる。そう見れば、「y の増加量は x の増加量の5倍」という表現も一概に誤りとは言えない。

しかし、上段にある式をそのまま使っているこのページの構成からして、大半の読者は、上段の具体的事象について述べていると理解するのではないか。実際、入試問題作成者までがこの表現に影響されて、「速さ毎秒 x m、距離 y m」のように具体的な単位で表される値にまで「何倍」を用いてしまったではないか。

新版の教科書

令和2年検定済「新しい数学2」東京書籍

ちなみに2023年時点の現行の教科書(令和2年検定済「新しい数学2」東京書籍)では、具体的事象が消え、数学的な記述のみに変更になっている。確かにこのページだけ見れば「y の増加量は x の増加量の◯倍」という表現も誤りとは言えない。

しかし、このページ内での矛盾はなくなり旧版よりましになったとは言え、前後には具体的事象の例題・練習問題が多くある。また、1次関数は特に日常的事象や他教科(特に理科)の内容とも密接に関わる。x や y が具体的な単位で表される値になれば意味をなさない「y の増加量は x の増加量の◯倍」という表現は避けるべきであろう。

「変化の割合」に誘導するステップとして、「y の増加量は x の増加量の◯倍」の表現を置くことが生徒にとって助けになるとの判断があったのかもしれない。しかし、検定済7点の教科書を見比べてみると、これを抜きにしても変化の割合を丁寧に教えているものも存在する。

生徒だけでなく教師や入試問題作成者にすら上述のような誤解を与える弊害があることを考慮すると、この節に「y の増加量は x の増加量の◯倍」という表現は用いないほうが望ましい。

教科書出版社の回答

そこで東京書籍に問い合わせてみたところ、次のような回答があった。

数学の世界で関数を考察しておりますので、「y の増加量は x の増加量の◯倍」の表現は問題ないと存じます。

また、数学の世界に落とし込むときに混乱が生じないよう、文字のおき方も次元を持たない表現にしています。例えば、平成27年検定版の58ページのQでは
  「x分後の水の温度をy℃とすると,」
と表現してあります。次元を含んだものを計算することはできないため、無次元になるように定義しております。

(東京書籍 担当部門)

私の知る「無次元」は上述のとおりなのでやや面食らったが、どうやら中学数学ではこのように解釈するらしい。どうにか意図を読み取ると、文字とは別に単位を書いておけば x や y は無次元ということか。

この理屈でいくと、「x分後の水の温度をy℃とする。x+y はいくらか。」といった設問も可能ということになってしまう。ここまで露骨なものは実際にはないだろうが、極端な例を挙げている。

平成27年検定版58ページは、はじめに具体的事象が例示された後に式が示されその後に「何倍」とあるから、多少複雑になっているとは言え、ここに挙げた極端な設問と構造的には同じだ。やはり実感としてはおかしいと言わざるを得ない。

私のような者は「x分後の水の温度をy℃とすると,」を「x とは時間を分で測った量であり、y とは温度を摂氏で測った量であると定義する」という意味に理解する。むしろ無次元とはまったく逆である。私も当然、中学校の数学を通過した者だが、いつから現在のような感覚になったかは自覚していない。いずれにしろ、学校数学は世間一般の感覚からずれているように思う。

抽象化と具象化

「倍」という表現からいったん離れて、もう少し低学年で学習するであろうところに話を移してみる。

小学校低学年あたりの算数では「抽象化」の理解に力を注いでいるだろう。たとえば

(a) りんご5個とりんご2個、合わせていくつ。
(b) トラック5台とバス2台、合わせていくつ。
...

から、抽象化した 5 + 2 = 7 を理解させるような。ここまでできたら、「6 + 3 = 9 からお話を作ってみましょう。」が理解度を測る一つの方法だろう。

(a') バナナ6本とバナナ3本。合わせていくつ。
(b') コミック6冊と絵本3冊。合わせていくつ。

もし中途半端な理解であれば、

(x) 重さ 6 kg と長さ 3 m。合わせていくつ。

という誤ったお話(「具象例」)を作ってしまうかもしれない。

いろいろ検索して回っているうちに次のような論文を見つけた。

現行の算数科では概念の把握には助数詞または単位をつけた数 (名数) を考えるが,これを式で表現するときには無名数を用いることがほとんど」で、「計算の段階では単位・助数詞を考えず,計算結果が出たところでそれに対して単位助数詞を与えるというような操作が一般的」と述べ、「中学校以上になると始めから単位を表わさない量の表現もあ」り、そこでは「単位のついた形で量としてその概念を会得したのち,さらにその抽象化として捉える必要がある。」としている。

これらを「教育の段階として計算の過程だけを取り上げて教えることは当然のことだとは考える」としながらも、「が,その結果,たとえば
例: 3 m と 10 cm を加えて 13      5 m^2 と 3 m を加えて 8 m
になってしまうようなことに違和感を感じないのは大きな問題である。
」と述べ、「現象を抽象的に見て数値として表現するという,数概念の根幹が分かっていない」と断じている。

最後に「出来るだけ無名数を使わない方が良いのではないか。」「数学の基本的な道具立てを改めて認識し直すことが大切なのではないか」と結論づけている。

最初に取り上げた入試問題、それを誘発したこの教科書の記述はまさに「違和感を感じないのは大きな問題」であり、「数概念の根幹が分かっていない」と言えるのではないだろうか。

「◯倍」は必要か

東京書籍からの回答に戻る。

xの増加量やyの増加量のように、2つの数量の変化に着目する見方ができる生徒でも、2つの数量を対応させる見方に難しさを覚えることは多くあります。そこで、対応の見方を養うために「y の増加量は x の増加量の◯倍」といった文章を入れております。

(東京書籍 担当部門)

代替表現がないのであればまだしも、

  • x が 2倍,3倍,4倍,…になると y はどうなるか (ここでの「倍」は x どうしなので用法に問題はない)
  • x がいくつ増えると y はいくつ増えるか
  • x が1ずつ増えると y はいくつずつ増えるか

等の表現で、「2つの数量を対応させる見方」を養えるのではないか。

「y の増加量は x の増加量の◯倍」でしか表現できない何かがあるのだろうか。この表現による効果がゼロとは言わない。いくらかはあるだろう。しかしこの表現による副作用が

しかしながら、ご指摘のように異なる物理量について「倍」という表現を用いているように捉える先生がいらっしゃるかと存じます。

(東京書籍 担当部門)

であれば、しかもそれが入試問題になってしまい、さらには学校指定購入のワークブックに収載されてしまっているとなれば、もはや利点を大きく上回って有害とすら言えるのではないか。教師が誤解するほどであれば生徒はなおさらである。

たとえば、これは中学生の投稿する掲示板に見られる例である。

「変化の割合」を正しく理解しているにもかかわらず「何倍」に惑わされて混乱している様子が伺える。私に言わせればこの質問者らの感覚のほうがまともだ。

上に挙げた代替表現は、日常の具体的事象と結びつけても何ら困らない。「時間 x が 2倍,3倍,4倍,…になると 温度 y は」「時間 x がいくつ増えると 温度 y は」のように。ところが「温度 y の増加量は 時間 x の増加量の◯倍」は日本語として破綻している。数学的表現の限りでは問題ないことは私も理解するが、日常の具体的事象と結びつけたとたんに破綻する表現をあえて持ち込むことは特に利点がない以上、不要と考える。

結論

東京書籍からの回答を、先ほどと重複して引用する。

しかしながら、ご指摘のように異なる物理量について「倍」という表現を用いているように捉える先生がいらっしゃるかと存じます。

次回、教師用指導書等を編集する際に、上記のことを検討したいと存じます。

(東京書籍 担当部門)

「京都の入試問題は不適切」と単刀直入には言っていないまでも、先生(問題作成者)の誤読があると言っているように読めるが、どうだろうか。

教師用指導書等で解説されるとしたら、それはそれでいいことには違いない。ないよりははるかにましである。しかし、教科書の読者の圧倒的多数は生徒であり、生徒が教師用指導書を見ることはほぼない。生徒が、教科書だけでは誤解してしまう可能性のある記述のみを与えられ、その注釈を与えられないのは不当だろう。(とは言え、その注釈までも教科書に載せるのは現実的でないことは理解する。)

いくらかの利点があるとしてもそれを上回る弊害があるのであれば、むしろこの表現「y の増加量は x の増加量の何倍」は避けるべきだと考える。

余録

ここまでに引用したものの他にいくつかの回答を得たので、それをここに記しておく。

ひとつは、冒頭に示したワークブックの出版社。

確かに「制動距離は秒速の何倍か」のような出題だと明らかに誤りになりますが,問題文中に「秒速xmで走るときの制動距離をymとする」とありますので,xとyは数として解釈して計算しております。

このような表記と考え方(単位をxやyの外につけて,xとyの値にのみ着目する考え)は,中学数学の教科書では慣例的に使われており,出題として問題ないと判断して掲載いたしました。

(正進社 中学編集部数学担当)

もうひとつは、別の教科書出版社。こちらの教科書の当該箇所の記述は平成27検定版と令和2検定版のどちらも、東京書籍令和2検定版とほぼ同じで、具体的事象の例示はなく数学的記述のみで説明が進み、その中に「y の増加量は x の増加量の何倍」の表現がある(数学的記述のみの限りでは問題ないことは私も理解する)。そのためか、問い合わせの真意を汲み取ってもらえなかったところがある。

関数の学習では,身のまわりの数量をxやyで表すことがよくあります。xやyで表した時点で単位についての情報はなくなり,xやyは「値」を表していると考えております。

中学校でも関数を扱う際には,「x時間」「ycm」などとして,量を表す単位は文字には含めておらず,xの増加量,yの増加量はその単位で定められた変数がとる「値」であると考えております。

(啓林館 数学編集部)

こうして並べてみると、中学数学の世界には「単位を外に付ければ x や y は「値」のみなので無次元」的なことが共通認識としてあることがわかった。はじめに挙げた京都府からの回答も私には意味不明だったが、なるほどこういうことか。これはたいへんな驚きである。

さらにもうひとつは、東京書籍からの2通め。

単位や次元について強く意識されるのは、高等学校の物理で次元やSI単位系について学習する段階だと思われます。

中学校数学においては、数を対象として学習を行っておりますが、中学校理科や高等学校物理と考えが異なる点もございますので、次回改訂の際には、ご指摘いただいた点に意を払って議論を行いたく存じます。

(東京書籍 担当部門)

中学数学を教える側は一生そこに留まっていて困らないのかもしれないが、生徒たちはどんどん先にも横にも進まなければならない。ここでの認識にとらわれていたら、次元解析無次元化などまるで理解できなくなるのではないか。理解するためには中学で教わったことを捨てて発想を転換しなければならない。なぜ生徒たちがそんなことを強いられなければならないのか。中学数学のほうが「単位を外に付ければ x や y は無次元」のような、世間一般では通用しない珍妙な概念を捨てればいいのでないだろうか。

Expert Mouse を買った(14年ぶり2回め)

この前の記事「HHKBを買った」から9か月も何も書いていなかったのか。しかもその時とほとんど同じような内容とは……。

Expert Mouse トラックボール(EM7) を長いこと使っています。正確に記録を残していませんでしたが、今では高校生になっている、友人の子がその当時はよちよち歩きで、膝に乗せてこのボールを触らせてあやしたことを覚えているので、購入したのは14,5年前のことです。

今でも問題なく使えているのですが、この前の HHKB と同じく、ふと壊れる前に新しくしてみようという気になりました。これまた HHKB と同じく、すっかり体に馴染んでいるので別のものに変えようという気にはなりません。現在もデザインもまったく変更なく同じものが販売されています。ありがたいことです。

新品と比べてみてみれば、古いものは何らか劣化していることに気づくかなと思ったのですが、案外そのままでした。スイッチの感触もほとんど変わりありません。見た目は確かに指の触れるところの塗装が剥げているのと、スクロールリングのギザギザがすっかり摩耗してツルツルになっているくらいでした。

ときどき掃除してきれいに使っているつもりでしたが、支持球が汚れているのか操作球が摩耗しているのか、新品のほうがはるかに滑らかにボールが動きます。この製品のスクロールリングの出来はあまり評判がよくなくて、前のは一度分解してどこか磨いたりしたような記憶がありますが、今回の新品は最初からスムーズで心地よく回ります。

自分の使い方では、本体は20年はもちそうです。HHKB 同様、この先これを買い換えることはもうないかもしれません。

EM7 とペットボトルカバーによるパーム(リスト)レスト
付属のパームレストはとうの昔にひび割れてだめになったので、試行錯誤の末、今は100円ショップで買ってきたペットボトルカバー350mL用にタオルを詰め込んで使っています。詰物をおはじきか何かと工夫しようと考えていますがまだ実現できていません。かなり高めにして、パームと言うよりは手首の上のほうを置いています。

ボタン割り当て

EM7 と右手ボタンの割り当ては自由に設定できるため、各自が自分の好みにすればいいのですが、参考までに私の例を晒しておきます。

右利きで、キーボードの右側に置いて右手で使用しています。

  • 左下ボタンを左クリック相当(親指)
  • 右下ボタンを右クリック相当(小指)
  • 右上ボタンを中クリック相当(薬指)
  • スクロールリングは時計で言うと3時の位置を薬指で、時計回りで下スクロール、半時計回りで上スクロール

ボールはだいたい人差し指と中指の2本の指先で操作しています。

HHKBを買った (22年ぶり2回め)

初代 HHKB の裏面ラベル

一つ前の型 HHKB Professional2 Type-S (PD-KB400WS) が Amazon のタイムセールで 20% OFF になっていたので、思わず購入してしまいました。現時点の最新型 Hybrid ではなく、USB 有線のみのものです。

これまで使っていたのは初代の Happy Hacking Keyboard (PD-KB01) で、裏を見ると1997年7月のものでした。

アメリカ西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬はそこに残していくが、どんなに砂漠を歩こうとも、鞍は自分で担いで往く。馬は消耗品であり、鞍は自分の体に馴染んだインタフェースだからだ。

いまやパソコンは消耗品であり、キーボードは大切な、生涯使えるインタフェースであることを忘れてはいけない。

の言葉のごとく、本体は何度も替わりましたがこのキーボードを22年も使い続けてきました。

まだ壊れてしまった訳ではありません。左シフトの反応が少しおかしい (キーをいったん外して紙片を入れて押し込みの深さを調整すれば大丈夫) のと、数年前に掃除した際にスペースバーの裏のバネを1本紛失してしまったのが不都合と言えるくらいです。

1990年代、私は Sun のワークステーション (SPARCclassic) を独占してデスクトップで使えるという環境にあったのですが、純正のキーボードは確か Type5 で、かなり大きくて邪魔なものでした。「CTC 省スペースキーボード」を入手して使ってみたのですが、これはノート PC のキーボードを持ってきたようなもので、キーストロークが非常に浅く、打鍵感がどうにも不快でしかたありませんでした。

そこに Happy Hacking Keyboard が登場してきたので購入したのです。ケーブルは Sun 用と PS/2 用 があって、はじめはもちろん Sun SPARCclassic で使っていたのですが、そのうち PC がどんどん高性能・低価格になり、Debian をインストールした PC がメインになり、PS/2 で接続して使うようになっていきました (SPARCclassic は画面なしキーボードなしで、リモートログインして使うサーバーとしてしばらく存在していましたが、6,7 年で退役しました)。

新旧 HHKB

それから本当に何台も本体は入れ替わっても、キーボードはずっと生き残り続けました。しかし接続口が Sun または PS/2 では、そろそろ「馬」に合わなくなってきたようです。

新旧の二つを並べてみると、この色の違い! 新品どうしならおそらくほぼ同じ色のはずです。煙草は吸わないのですがここまで黄ばんでいたとは。毎日目にしていると案外気がつかないまま、ここまで変色していました。

新旧 HHKB を横から見る

さっそく新しいのを使ってみていますが、やはりちょっと違和感があります。写真にうまく撮れませんでしたが、本体の厚さ(高さ)がほんの数 mm ですが高くなり、それに本体断面のカーブがゆるくなっています。それから、各キーの縁が微妙に指に痛い。前のは使い込みすぎて縁が丸くなっていたのでしょうか。もちろんこれらは慣れの問題で、すぐに気にならなくなるでしょう。

今回購入したものがこの後また20年ほどもつとしたら、次のキーボードを買うことはもうないかもしれません。

「6÷2(1+2)」問題は100年前にも議論されていた

明示されない乗算と除算記号の演算順序について、記事『「6÷2(1+2)」問題について教育委員会に問い合わせてみた』『6÷2(1+2)問題あらため2a÷2a=1問題 — はてなブックマークのコメントに反応してみる』を書いたのは2015年3月でした。そのときですら既に周回遅れで、検索してみるとその2,3年前にも話題になっていたようです。そして年に数回ほど、突然ばっとこの記事へのアクセスが増えることがあります。どこかで話題になり、検索してたどり着くのでしょう。

私はこの問題に特に興味を持っているわけでもなく、その後を追っているわけでもないのですが、今年(2019年)に入ってまた急にアクセスが上昇したので、思い出したように自分でも検索してみたところ、興味深い例を見つけました。

Lennes, N. J. “Discussions: Relating to the Order of Operations in Algebra.” The American Mathematical Monthly 24.2 (1917): 93-95. Web. https://www.jstor.org/stable/2972726

です。内容をかいつまんでみると、

  • 理論的には、演算順序は左から右なので、9a2÷3a = 3a3 であって 3a ではない。
  • しかし実際には、9a2÷3a = 3a のような例ばかりが見られる。
  • 当時の Chrystal の代数の教科書では、これを避けるため、乗算記号のない積を除算記号の直後に置かないよう注意深く書かれていた。
  • それに続くいろいろな人による教科書ではその注意が足りず、10bc\div 12a = \frac{(10bc)}{(12a)} などと書かれた。
  • 9a2÷3a は 3a を意味して 3a3 ではない、というのは「数学の慣用表現」である(英単語 drink の過去形が drank であって drinked でないように)。
  • これは論理的ではなく、歴史的な事柄である。

というものです。

以前の私の記事には、なんとか 9a2÷3a が 3a であることの理論的(?)根拠を示そうと、多くのコメントが付きました。私にはさっぱり響きませんでしたが。それが100年も前に「理論ではない、“慣用表現”だ」と喝破されていたのでした。古い文献に 9a2÷3a が 3a のような例があることをもって、それみろと言わんばかりにこれを主張する人がありましたが、むしろ逆で、古い文献にあるからこそ「歴史的遺物」とも言えるわけです。

以前の記事へのコメントに答えて私も「Smith の第33条で、(a÷b÷cは)「a÷bcと書くこともあるよ」と、ほんのおまけのように付け加えていることは、ただこの慣習に触れているにすぎないのではなかろうか、と思わされました。」(2015年3月18日のコメント)と書いています。今あらたにその思いを強くしています。

繰り返しますが、私はこの問題に特段の興味があるわけでもなく緻密に議論を追っているわけでもありません。その私は今、

  • ずっと昔は、乗算と除算の優先順位が同等でない考え方もあった。“If an arithmetical or algebraical term contains ÷ and ×, there is at present no agreement as to which sign shall be used first.” (Cajori ”A History of Mathematical Notations” 1928–29)
  • 「慣習的に」9a2÷3a が 3a であるような表記もしばしば行われた。
  • 既に100年前に、それは慣習的・歴史的なものであり、理論的ではないと指摘されていた。
  • 理論的でない表記は廃れるかと思われたが、いつしか「慣習的」であることが抜け落ちた。
  • 今日でも中学生にはこれが「慣習的・歴史的」とは告げずに教えられている。

のような流れではなかろうかと推測しています。

この Lennes (1917) の存在を教えてくれたのは、今回検索していて見つけた動画でした。

私の記事よりは後の2016年に公開され、現在(2019年)までに1千万回以上も視聴され、7万件以上のコメントが付いています。もちろんすべてのコメントを見ることはできていませんが、ざっとみたところ「1派」も「9派」もたくさんいます。このことからはっきりわかるのは、この問題は「あいまい」であるということです。

以前の記事へのコメントでも書きましたが、この問題についての私の考えは次のとおりです。それは上述の100年前の指摘を知った今も変わりません。

ab÷ab を ab÷(ab) と書きさえすれば誰もあいまいだとは思いません。中学校でもこの表記で教えて何か困ることがあるでしょうか。括弧を付けても単項式の除算の意味を教えるのに何の不都合もありません。現状のあえて括弧を付けない ab÷ab でしか表せない何かがありますか。ab÷ab と書かなければならない必然性がどこにもありません。(2016年3月7日のコメント)
「すべき」ことは、むしろ括弧を使うことです。別の解釈をさせたければ ab÷(ab) と、括弧をつかう「べき」です。単項式わる単項式の理解度を計測するのに、括弧を使っても何の不都合もありません。(2018年9月4日のコメント)

【この記事にコメントする際の注意】

この話題に関する以前の記事『「6÷2(1+2)」問題について教育委員会に問い合わせてみた』『6÷2(1+2)問題あらため2a÷2a=1問題 — はてなブックマークのコメントに反応してみる』には非常に多くのコメントが付けられ、後から読む人が苦労するほどになってしまいました。そのため、それらの記事へのコメントの受付を停止します。

この記事へのコメントは、それらの記事に既に付けられているコメントと同内容と私が判断するものは、原則として不掲載とし、削除することをあらかじめ宣言しておきます。自由に意見を述べることを封殺する意図はありません。後にここを目にする人たちに対しての配慮です。ご理解ください。

ノートパソコンに Debian をインストール

スウちゃん (仮名、4年生) が「ノートパソコンがほしい」と言い出しました。学校でも PC に少し触ることがあるし、家でも親がスマホやタブレットでなく大きな画面でカタカタやっているので興味はあるのでしょう。ほう、では何をやりたいか書き出してごらん、と言うと、「字を打てるようになる」「ゲーム」「メール」「プリント」とのこと。「プリント」って何と聞いてみると、宿題などのために調べ物をしたらそれをプリンターに出したいということでした。

ラップトップ型パソコン

興味を持ったときがチャンスだと思い、早速探してみました。はじめ中古は考えていなかったのですが本人に「中古でもいい?」と聞いてみたらまったく気にしないとのことで、1年落ちで14インチ、メモリ8GB、SSDが240GBという一段上のスペックのものが安い価格で見つかり早速購入。いまどき OS なしのパソコンを探すのは難しいので Windows10 も込みです。状態説明で「タッチパッドにテカリあり」となっていましたが、仮に新品でも使いはじめたらすぐにこのくらいになってしまうだろうという程度で、それに普段使う角度から見るとまったく気になりません。ほかに特に問題はなく、今のところいい買い物だったと思っています。

さて Windows10 が入っていても、私自身が普段使いしておらず面倒を見きれないので、さっそくおさらばすることにします。購入時に聞いたのですが Windows のプロダクトキーはどこかに記載したものは一切ないとのことでしたので、一度 Windows10 で起動して確認し (その方法はネットで探しました)、控えておきます。これで、そのうちどうしても他所と同じ Windows じゃないとと言い出した時には戻せます。

Debian stretch のインストール

現時点での安定版 Debian stretch をインストールしていきます。

まず親機で netinst イメージ (300MB ほど) を USB メモリにコピーします。これをラップトップ機に挿して起動し、あとは画面の指示に従っていくだけです。途中、ハードウェアを解析し必要なものを要求してくるので、それ (firmware-iwlwifi の deb パッケージ) を親機で 別の USB メモリに入れて、ラップトップ機の別の USB の口から与えました。ネットがつながればあとはあっさりインストール完了です。

task-xfce-desktop を選択したので、LibleOffice はじめ一通りのアプリケーションが揃っています。日本語変換は fcitx と mozc (キー設定はMS-IME互換) の組み合わせ。デスクトップのパネルを下に配置することで Windows にかなり似せました。「学校でさわるのとちょっと違うよ」と言い、スウちゃんも今の時点では難なく受け容れています。

スウちゃんの希望 (「ゲーム」は昨年のクリスマスに Nintendo Switch をもらったこともあって却下) に沿うため、thunderbird をインストールしましたが、実際にはまだ使っていません。XMPP (チャット) クライアントの Gajim を入れてやり、同じ家の中から私が話しかけてやります。スピーディだし、絵文字もすぐ選べるから楽しいし、なんとか返答しようとしてキー入力もやります。動機づけには十分です。

印刷のためには、cups のパッケージを一通りと、うちにあるのは Brother のプリンターなので、メーカーのサイトから入手したドライバーをインストール。そうか、そのドライバーは i386 用なので、その前にマルチアーキテクチャ対応にする必要がありました。

久しぶりにクリーンインストールを行いましたが、それにしても Debian のインストールからデスクトップ環境構築までがこんなに楽になっているとは驚きました。

醤油差し

多くの人に経験があると思うのですが、醤油差しの液だれは地味にストレスです。これまでに100均のものをはじめいくつも使ってきましたが、どうもしっくりきません。何かいい知恵はないかとネットで検索してみると出るわ出るわ……。皆さん同じような思いをされているのでしょう。

そういうページで紹介されているものは案外種類が少なく、ベスト10となると多少順位は変わっても同じような顔ぶれがランクインしています。

最後に使っていた安物の醤油差しは差し口からの液だれなのか蓋と本体の継ぎ目からの漏れなのか判然としなかったのですが、周囲の汚れることおびただしかったのです。そこで、まず頭で考える私にはひとつこれだけはと思っている点がありました。注ぐ際に醤油が蓋と本体の継ぎ目をまたがなければ、後者の問題は起こり得ません。あとは注ぎ口の形状にのみ注意すればいいのです。

そうすると、あちこちで紹介されている白山陶器 G型しょうゆさし 大 白磁が候補に挙がりましたが、評判をじっくり見ていくと少数とはいえ液だれがあるというのが見つかります。陶製だと精度が出にくいのでしょうか、個体差があるのではないかと思われます。

結局、陶器より精度のよさそうなガラス製(残量もわかりやすいですし)の「iwaki クラフトライン しょうゆ差し 100ml K5023-SV」に決めました。しばらく使ってみましたが、注ぎ口からの液だれはまったくありません。もし蓋のパッキンが劣化して密閉性が多少悪くなっても醤油はそこを通過しないのでぜんぜん問題はありません。もう少し値段が安かったら言うことはありません。

さて、見た目が面白いのでスウちゃん (仮名・9歳) に
父「こっち (本体側) とこっち (注ぎ口側) の醤油の高さは同じになるんだよ」
などと話をしていました。
父「傾けても高さは同じになるよ」
スウ「違うよ」
父「えっ」
スウ「違うよ」
父「……」
よく見ると確かに。注ぎ口のほうは水平ですらありません。うーむ。「それは“表面張力”と言ってだな、」と言いかけましたが、残念ながらスウちゃんはそんなところまで興味はないのでした。もし入試にこんな問題があるとすれば、但し書きがないと「出題ミス」と揚げ足を取られることになりそうです。

薪ストーブでブルーベリーパイ

スウちゃん (仮名、9歳) が突然「リンゴない?」と聞いてきました。数日前に買ってきた冷凍パイシートのパッケージの裏に書いてあるアップルパイの作り方を見ていたのです。「そんな急に言われてもないよ」と答えるしかありませんが、夏に採ったブルーベリーがまだ冷凍庫に残っていたことを思い出し、これでやってみることにしました。

材料

  • 冷凍パイシート 4枚入
  • ブルーベリー 適量 (100gくらい?)
  • 砂糖 適量 (30gくらい)

小鍋 (相変わらず鉄鍋でも気にしないことにします) にザラザラっと入れたので正確にはわかりませんが 100gくらいのブルーベリー、それを見て砂糖も適当に。薪ストーブの天板に載せるとすぐ水がどんどん出てきます。とろみが出るまで1時間ちかく煮詰めました。

1枚のパイシートにブルーベリーのジャムを載せ、その上に短冊状に切ったもう1枚分のパイシートを載せました。パッケージには4枚入だったので、これが2組できます。

焼くのも薪ストーブを使います。うちの薪ストーブの火室は幅18インチ、奥行き21½インチとやたら大きく、またガラス窓の前面以外は1¼インチ厚の耐火レンガで囲われていて、ちょうどピザ窯みたいなものなのです。朝から焚いているのでしっかり熱くなっています。火室内の温度を見極めるのが難しいのですが、暖房としては弱すぎるくらい温度が下がってきた頃がちょうどよくなります。炎が上がっているのではもちろんだめで、ジャムを煮詰めている後半からだんだん火を絞り、残った熾は奥の方に押しやって手前を灰だけにして (そうしないと底が熱くなりすぎ、上面が焼ける前に裏面が焦げてしまいます) 五徳を入れ、そこにパイ生地を載せたスキレットを置きます。

数分で焼き上がります。するとスウちゃんはさっさとそれを持ってお友達のところへ出かけていってしまいました。出来上がりの味はわかりませんが、鍋に残ったジャムを舐めてみたらちょっと甘すぎたかもしれません。今回は冷凍のパイシートを買ってきていたので、たいへん楽でした。